市況研究社日報

トランプ勝利後の市場

「市況研究社日報」(石油) 2016年11月25日(金)

個人的な意見を言うと、米大統領選でトランプ氏が勝利したとき、米国史における1950~1954年の「マッカーシー」を連想した。

トランプ氏の源流はニクソンやレーガンよりもマッカーシーにある。トランプ氏はマッカーシズムを受け継いでいる。

しかし、私の妻に「マッカーシーを知っているか」と尋ねると「知らない」と言うので、マッカーシズムを知っていることを前提にしたリポートでは伝わらないと考えて、マッカーシズムから記すことにします。同時代のジャーナリストのリポート=R.H.ローピア『マッカーシズム』(岩波文庫)から抜粋して紹介します。

多重虚偽

ウィスコンシン州選出米上院議員、ジョセフ・R・マッカーシーは多くの点でアメリカが生んだもっとも天分豊かなデマゴーグだった。われわれの間をこれほど大胆な扇動家が動きまわったことはかつてなかった。また、アメリカ人の心の深部に彼くらい的確、敏速に入り込む道を心得ている政治家はいなかった。

それは滑稽なものを持ち上げ、重大なことを嘲笑した。常識を踏みにじり、常識をけしからぬものにした。形式と価値の範疇を混乱させた。変人を賢人のように扱い、賢人をバカ者だと非難した。現在から関心をそらせて、過去に注目させた。そして、過去を見るも無残に歪曲した。

彼は思うままに嘘をついた。恐れることなく嘘をついた。白々しい嘘をつき、真実に面と向かって嘘をついた。生き生きと、大胆な想像力を用いて嘘をついた。しばしば、真実を述べるふりすらしないで嘘をついた。

それはなんと言ったらよいか、子供の千変万化の思いつきの言葉、それも、混乱と疑惑の種をまくやり方はちゃんと心得ている程度に世間ずれしている子供を相手にしているようなものであった。大人の対話の言語や語法では挑戦に太刀打ちできなかった。

彼はどこから見ても「口ぎたなく」、「低級で下品な男」であり、彼自身世間にそう見てもらいたいと思っていた。マッカーシーは猥雑汚猥な言葉の名人だった。その談話は猥雑な味付けがされていた。

私は『ニューヨーカー』誌の「ワシントン便り」の中でマッカーシーを取り上げた際、その最も注目すべき新手法の一つを「多重虚偽」と呼び、多くの点でヒトラーの嘘に比すべき技術だと書いた。

「多重虚偽」はとくに大きな虚偽である必要はなく、一連の相互にあまり関係のない虚偽、あるいは多くの側面を持つ一個の虚偽だったりする。いずれの場合にも、全体が非常に多くの部分で構成されているために、真実を明らかにしたいと思う人は虚偽の全要素を同時に頭の中に入れて置くことがまったく不可能になってしまう。

真実を明らかにしようとして、人はその中の二、三の言明を取り出して、それが嘘だということを証明するかもしれないが、こういうやり方は、取り出された言明だけが嘘であって、残りは本当なのだという印象を残すだろう。

「多重虚偽」のさらに大きな利点は、嘘と証明されたを言明をその後も平然と何べんでも繰り返しうるということである。というのは、どの声明が否定され、どれが否定されていないかを誰も覚えていないからである。この手法はマッカーシーがウィスコンシン州の田舎町で選挙運動をしていたころから愛用していた技術だった。

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マッカーシーは上院の本会議場で、オーエン・ラティモアが元同僚のジョゼフ・バーンズにあてた手紙なるものを読み上げていた。数人の上院議員が、この抜粋には甚だうさんくさいところがあると思い、マッカーシーは文脈をぼかすことによって意味をひんまげているのでないかとの意見が出された。

とんでもないとマッカーシーは言って、いますぐ点検してもらおうと申し出た。レーマン上院議員がこの申し出に応じ、会議場を横切ってマッカーシーの演壇の方へ歩いて行った。マッカーシーは「もう発言権は譲らない」と言った。それは無理もなかった。というのは、マッカーシーは文脈を乱さずに引用していたのでもなければ、文脈をはずれて引用していたのでもない。全然引用なんかしていなかったのである。彼は上院の壇上に立ったまま、その場の目的に合うような文章を発明して、それをオーエン・ラティモアが書いたものにしていたのだった。

このことは、その後まもなくこの手紙が印刷された議事録の一部として現われたときに明らかとなった。だが、そのころまでにマッカーシーはほかにもいろんなことをしゃべっていて、彼のつくりもののテキストと本物のテキストをわざわざ比較してみるような人はほとんどいなかった。

エルマー・デイビスはこう書いた。「それらすべてを追跡するなどということが誰にできるだろう。彼が何かをしゃべり、前にはこれとは全然違うことをしゃべったという漠然とした記憶がよみがえったとしても、演説を通読する時間などめったにあるものではない。私はマッカーシーが言ってきたことに精通するために常任の専門家を雇うようなゆとりはない。

危険な幻想の商売

ラジオ解説者で、マッカーシーの公認の宣伝係だったフルトン・ルイスは『多くのアメリカ人にとって、マッカーシズムとはアメリカニズムのことだ』と言った。

この言葉がはやり出すと、マッカーシー自身も気に入った。彼は1952年ウィスコンシン州のある集会で『マッカーシズムとは腕まくりをしたアメリカニズムである』と語った。

扇動政治家は不平あるいは過ちを見つけると、それにつけこむ。これがこの野獣の本性だ。マッカーシーは不満分子の連合体をつくり上げたのだ。過去20~30年にわたってみられたさまざまな傾向(国際主義、超階級性、福祉国家)に深い憤りを覚えた人々の連合体を形成した。マッカーシズムは、20年間仮装服夜会を窓枠に鼻を押しつけて見ていた人々の復讐である。これらの人々、そしてその他多くの人々にとって、彼は反逆の象徴であった。

さらに、何にもまして、マッカーシーは多くの人々に、この男は大切な真実を語っていると思いこませたのであった。彼はうずまく雲のような大量の煙をもくもくとわき上がらせたので、異常にだまされやすいといえない多くの人々が煙の下には火があるに違いないと信じるようになった。

ニーチェは書いている。「果実が熟したときに木をゆすぶるだけのことしかしなかった英雄がここにいる。それは小さな仕事だと君は思うのか。まあ、彼がゆすぶった木を見るがよい。」それは大変な木であった。われわれが直面しているのは、マッカーシーが木をしたたかにゆさぶったという事実である。木は倒れず、彼が倒れた。しかし、米国民の50%がこの弱い者いじめのペテン師に「好感」を持ち、21%がこの人物について「意見なし」としていた時代の記憶をすててしまうことは出来ない。

たとえマッカーシーがもっとうまくやったとしても、マッカーシズムが危険な幻想の商売をしていることに変わりはなかっただろう。『ニューヨーク・ポスト』の編集長ジェームズ・A・ウェクスラーは常設小委員会の証人として得たマッカーシーの印象をその数日後に語っているが、真実をついている。ウェクスラーは、マッカーシーの激怒の中に何かしらいらだちと失望といったものが感じられたと言い、次のように述べている。「マッカーシーは心底から、私にその立場をわかってもらいたいと思っている、そういう感じを持った。『ねえ、君、君には君の商売があり、おれにはおれの商売がある。そこだよ。なにも君が座をしらけさすようなことを言うことはないじゃないか』とでもいいたげな様子だった。」

現実からの逃走

荒れ狂うマッカーシズムは一時アメリカの政治を「忠誠上の危険分子」や「安全保障上の危険分子」に関する馬鹿げたおしゃべりにだけの問題にしてしまった。最悪だったのは、マッカーシーとマッカーシズムに引きずられて、国家の健全さは愛国心に疑いのある小役人との戦いにあると考えるようになったことである。

マッカーシズムの道化的特徴は実はその本質にかかわるものだ。マッカーシズムはなかんずく、いや多分になによりもまず、現実からの一目散の逃走であった。マッカーシズムは自らを現実を直視する唯一の原理だと声高に称して実は現実から逃走していた。

マッカーシズムは現実を無視し、せいぜい現実の一面にすぎぬものが現実の全部であるかのような幻想を育成した。

扇動政治家、暴動教唆者、群集操縦者は身近な、おなじみの、御しやすい敵を必要とする。マッカーシズムはスターリンやフルシチョフをへこますことは望むべくもなかったが、ペレス少佐やツウィッカー将軍やロバート・スティーブンズならなぶりものにすることができた。

マッカーシズムは、1930年代の孤立主義の復活であった。

米トランプ氏の勝利
(ⅰ)多重虚偽
(ⅱ)危険な幻想の商売
(ⅲ)現実からの逃走

(ⅱ)と(ⅲ)はメダルの裏表です。

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